岡山大学大学院医歯薬学総合研究科ヒトES細胞倫理審査委員会 第11回委員会議事録
日時:平成17年7月25日 午後1時〜3時
場所:歯学部第一会議室(歯学部棟2階)
出席者:A,B,C,D,E,G,H,I,申請者A,申請者B,申請者C
欠席者:F,K
資料:資料5「ヒト胚性幹細胞の肝細胞への分化誘導およびその対外式バイオ人工肝臓への応用に関する基礎的研究」における研究指導方針
   文部科学省科学技術・学術審議会 生命倫理・安全部会特定胚及びヒトES細胞研究専門委員会(第26回)における審議等について
 
A : それでは時間になりましたので,ただいまから倫理審査委員会を始めたいと思います。本日は暑い中ごくろうさまです。
 既にメール等で御報告しておりますけれども,7月15日に文科省の専門委員会がございまして,本研究科から提出された研究計画についての審査がございました。使用責任者の申請者A先生と私が出席いたしまして,内容の説明をいたしました。それから,傍聴者としては,事務の方から事務担当とそのほか使用者側から3名が出席いたしました。
 審査の前にあらかじめ受けたコメントの内容,そのコメントに対する私たちの説明,それからその後の専門委員会における質疑の要点,さらには事務担当の方からメモをとっていただいた,私たちが退席した後の審議の内容につきましては既に文書で御報告しているとおりであります。
 その文書の内容について何か御質問がございますでしょうか。よろしいですか。
 それで,結論としては,まだ正式な話というわけでもないところがあるんですが,少なくとももう一度倫理審査委員会を開いて,使用責任者の倫理的な姿勢,ES細胞に対する考え方について口頭で議論をすべきであるという指摘をいただきましたので,急遽委員の皆様方にお集まりいただいたわけであります。きょう,当人,申請者A先生を始め使用者も含めて待機していただいておりますので,もしよろしければ入っていただいて審議を始めたいと思いますけれど,よろしいですか。
 
(申請者が会場に入場)
 
A : それでは,申請者A先生,申請者B先生,申請者C先生,どうもお忙しいところありがとうございます。
 既に御承知のように文科省の専門委員会で研究計画とその審議過程が審査をされまして,基本的大枠は御理解いただいたと思うんですけれども,1点,使用責任者がこのES細胞を使うということについて倫理的な側面からどのように考えておられるか,どういう基本的な姿勢をとっていこうとされているかということについての,口頭による審議が不十分であるという御指摘を受けました。私たちは,申請者A先生のこれまでの実績と,それから出していただいた文書で基本的にはそれを評価するという立場だったんですけれども,振り返ってみますと確かに口頭での審議が少なかったので,きょうかなり基本的なところからいろいろ質問させていただいて,先生のお考えをお伺いしたいと思います。
 それでは,まず最初に私の方から少し質問させて頂きます。先生は随分いろんな角度から臨床とそのバックになる研究に携わってこられておりますが,治療への応用を目指して行う研究にヒトの胚や組織を使用するということは,逆に人にある種の犠牲を強いることになる,つまり人の組織をとって実験に使うことはその人にとっては負担であるわけで,そういうあたりに矛盾があると思うんですけど,そのことについてはどういうお考えでしょうか。
申請者A: 消化器腫瘍外科の申請者Aでございます。きょうはよろしくお願いいたします。
 今,御質問いただいたことでございますけども,私どもの外科ではこの8年間ずっと生体肝移植っていう新しい先端医療に取り組んできております。生体肝移植の場合は,健康な人の体を傷つけて,その人から肝臓をいただいて,病気の方に植えると,こういったことをしなければなりません。我々はそれまでは脳死の肝移植でこの道を切り開くべくずっと準備してきておりましたが,現実に島根医科大学,それから引き続いて京都大学で生体肝移植が成功をおさめてきますと,やはりそちらの方に流れていくというか。で,5年前に脳死移植法が成立しましたが,これまでに脳死提供というのは全国で28例,非常に少ないわけですね。明日でちょうど生体肝移植,私ども122例目になるわけですけども,その都度,息子さんであれ,お父さんであれ,お母さんであれ,御兄弟であれ,健康な人の体を開いて肝臓をいただいてまいりました。むろん,インフォームド・コンセント,本人の十分な意思を確認してそういった治療をしているわけですけれども,現実には,ドナーに術後合併症が起こりますと,中には非常に深刻な場合もございます。それほど深刻でないとしても,注意深く見れば,やはりそういった合併症が出るということは,ドナーに相当長期間にわたって心理的なストレスがあったに違いないと,そういった想定もしております。肉親,兄弟であれば余計,本当のことは言えない。そのような精神的ストレスの加わった状況で,臓器の提供が行われているというふうな気がいたします。言うなれば,本当のドナーの心というのは沈黙してるのかなと思っています。
 一方,そういった移植医療の大きな制約,あるいは倫理的な問題点をやはり少しでも克服する,あるいは軽減していくためには新しい道を切り開かざるを得ない。移植をしないという状態に後戻りすることはもうできないわけです。そういう中でどうしたらいいかということで,我々も自分たちの持てる科学技術を傾けて考え,行ってきました。その一つが,不死化細胞株を作るということですね。健康な人の肝臓の細胞を用いて遺伝子操作をして,どんどん増える肝細胞を作ると,こういったことをやってまいりました。しかしながら,遺伝子導入技術にも,まだ今のところ大きな限界がありまして,やはり遺伝子導入に伴うリスクというのがあります。我々はそういった不死化株を作りながら,この細胞を使ったバイオ人工肝の開発というのを今一生懸命やっておるわけですけども,もう一つ先を考えてまいりますと,遺伝子操作をしないで高機能の肝細胞を大量に確保する道がさらに望ましいのでありまして,それがES細胞の応用であろうというふうに考えます。
 そのES細胞は,ヒトの受精胚から作るわけでしょうけども,現時点ではあくまでも余剰胚をいただいてES細胞を作り上げます。余剰胚を使うことができるということに生殖補助医療の中で余剰胚が生まれたという前提があります。確かにES細胞を作るためには余剰胚を滅失すると言われてますけども,一方で,生殖補助医療で余剰胚を作ってそれを凍結するということは,これまた命を一つそこに沈黙させているという問題があると思います。私は,生体肝移植におけるドナーが沈黙せざるを得ないように,生殖補助医療の中の余剰胚もまた沈黙を強いられてると思います。ですが,もしもES細胞から人の役に立つ細胞,例えば肝細胞というものに誘導できれば,それによって余剰胚は新しい命を与えられるし,それからまたそのことによって肝移植におけるドナーの負担というものも軽減できると思うわけです。
 ES細胞を利用した医療は過剰な介入ではないかという御指摘がこの倫理委員会であったと聞いております。それからまた,先日の文部省においてもそれについての見解を求められました。もともと過剰,いろんな意味で,倫理的にみて過剰,あるいは肝移植の現実を考えればコストも非常に過剰です。1件あたり1,000万円,2,000万円のお金が飛んでいきます。それは,保険財政にも非常に大きな圧迫になっておりますし,そういう意味で現代の先端技術と言われているものが非常にいろんな意味で過剰であるということは事実だと思うんですが,これを科学技術の側から考えれば,技術の進歩が中途半端な状態で長くとどまってるということをあらわしてると思うんですね。もしも移植という結果がすばらしければ,さらに科学技術を進歩させて,そういった倫理的負担,あるいはコスト的な負担を大きく軽減するように,我々は科学技術をその方向に進めなければいけないと思うんですね。現状の移植医療は,技術的に見れば中途半端な段階にとどまっている。ES細胞から肝細胞を誘導する,そういう目的のためにES細胞を使わせていただければ,今申し上げたような現代の医療が持っている大きな負担あるいは矛盾を軽減できるのではないかというふうに考えております。長くなりまして失礼いたしました。
A : ありがとうございました。先生は臨床をやられて人の命の重みということには毎日向き合って仕事をしておられると思うんですけれども,その中でヒトの胚,あるいはそこに由来するES細胞はある種の尊厳がある,その尊厳の由来は何かということについてはいかがでしょうか。この,問題は非常にさまざまな議論が行われて,いろんな考え方があると思うんですね。人の命ということを背景にして,胚というものを先生はどのようにお考えなのか。胚に尊厳があるという議論,あるいはそこに由来するES細胞に尊厳があるという議論。現実に先生が計画しておられるのはES細胞を使われるということなので,そのためにそれなりの取り扱いをしなくてはいけないということでさまざまな準備もされてるわけですけれど,「指針」に言われてるとおりということではなくて,先生御自身が胚とかES細胞,あるいはその尊厳についてどういう感覚を持っておられるか,そのあたりについてちょっと。
申請者A: ヒトの胚に対してどういう道徳的,倫理的な考え方を持ってるのかってことについて言えば,正直申し上げまして今回の審査を受ける過程で自分自身が改めて深く考えたことです。そもそも胚,受精胚そのものが,もう既にそれは人の生命であって,したがって他者によって侵すことのできない存在であるという考え方,特にカトリック系の背景の世界では非常にそこを厳格に考えておられると思います。それに引きかえ,私自身そういった考えが非常に乏しかったということを,この今回の問題,研究計画を出すまでは私自身そうだったと,あらためて反省するような思いでありました。
 さらなる問題は,受精胚から出発して新しい科学技術を展開するっていうことは,それがまた将来にわたって予想外の非常に倫理的な新しい問題をはらむのではないかと,そういう将来に対する不安というものをいろいろ指摘もされています。私自身も今回の研究計画の中でもそういった問題があるということは強く感じました。
 しかし一方で,先ほど申し上げましたように,私自身が臨床家として抱えてる現実,全く健康な人の体を開いて,そしてそこから肝臓の3分の2を取り出していくっていう,こういったことを私自身正直言ってある意味で強いられているというな思いもいたしております。私自身非常に苦しいという思いで移植医療をしております。
 そもそも,人間が知恵のリンゴをとったとこからこの問題が始まっておって,ですから移植にかかわる技術にしても,そういった不自然なことをある意味で重ねてきておるわけではあります。しかしながら,その与えられた科学技術の現段階においていろんな科学技術を結集して,それなりの,その現時点での倫理的な整合性を求めざるを得ないし,私としてはそういうことを考えた場合に,胚を何らかの次の目的のために使うということは,もしも神というものが存在するんであれば,それは許されてもいいのではないかというふうに考えます。
 むろん,これは現にローマ教皇が反対してるわけで,私がその方の前でそういった考え方を語ること自体がとんでもないとは思うんですが,現実に我々がこの科学技術の中で置かれた状況というものがございます。
A : ちょっと角度を変えてお伺いしますと,確かに先生がおっしゃるように,今の移植医療が,移植医療自体が患者さんというか,ドナーに多大な負担をかけてもいるし,そのこと自体にさまざまな問題があると。だから,むしろ科学技術が進歩して細胞を自由に使うようになれば,そういう負担を軽減することができるだろう,そのことはよく理解できます。そのために,先生御自身が実際にソマティックなヘパトサイトをイモータライズしてそれを活用しようという努力をされてきた,そのことについては恐らく今の世の中の大部分といいますか,ほとんどの人はそれはいいんじゃないでしょうかという考え方だと思うんですね。今問題になっているのは,結局そういう生体の肝臓に由来する,普通の組織に由来する細胞を使うということと,胚に由来する,つまり生命の萌芽である胚に由来する細胞を使うということの間にはおのずから違いがあるはずだと。それが指針の一番基本的な精神になってるわけですよね。だからこそ使い方にもこういう特別な審査もするし,使う場所も限定するし,方法も厳密に定められていると。だから,お伺いしたことは,先生御自身がES細胞と例えばヘパトサイト,それに対してどういう違いを感じてこれからの研究を進めていこうとされてるか,そういうところだと思うんですけど。
申請者A: ちょっと私もその辺,どういうふうにお答えしたらいいのか分かりませんが,現実に我々は,また話を移植に戻して恐縮なんですが,脳死者から臓器をいただくときに,脳死は人の死か人の死ではないかと,これが本当に延々と論議されました。私自身,脳死は人の死ではないという考え方を持ってまして,やはり脳死の人体からはその人の人間性が見えてくるというか。だから,それを感ずる限り人の死というものは認めることはできないのであって,まして医者でもそう思うわけですから,その御家族の気持ちを考えますと当然であります。また,我々は死体からも,そこにやっぱりひとのいのちを逆にたどって感ずることができるわけであります。ですから,そういう意味で,ES細胞,ましてやその前の段階の受精胚を見て,そこに将来の人間を想像したり,あるいはそれを感じることは,それは人であれば皆さん誰でも可能なことだと思うんですよね。
 たまたまですが,先日うちの大学院生がマウスのESを実験しておりまして,その彼と話したときに,ES細胞が活発に増殖するときには,普通の細胞であればそこまで世話しなくてもいいんですけども,このES細胞が非常に活発に増殖するということで1日に4回培養液を換えると,その換えるときの気持ちとしては,要するに4回も細胞の世話をしているわけで,これは赤ちゃんを扱うのと一緒だと。だから,彼は細胞のことをベビーだと言ってましたけども。そういった若い科学者の気持ちの中にES細胞の理論というものが分かれば,当然そこにベビーという言い方が自然に生まれてくるのだと感じました。
 ですから,私自身あらためて教えてもらったって感じがしたんですけども,ES細胞を扱っていく科学者の気持ちっていうものは,そういったものが自然に生まれてくるんだろうと思います。むろん,ESの科学技術を知らない人に細胞を見てそういった感情を引き起こすっていうのは難しいと思うんですね。ES細胞の科学技術っていうものを知れば,逆にそういった感情が生まれてくる,そういったことがESをめぐる倫理あるいは人間性,あるいは感情の問題ではないかなと思っております。
A : はい,ありがとうございます。
 それでは,ちょっと委員の皆様方から少し質問をしていただきたいんですけど。
 どうぞ,何でも。
 まず最初に,申請者A先生を中心に議論していただいて,その後で使用者の申請者B先生,申請者C先生に質問となりますけど。
 I先生,いかがですか。
I : はい。私は医療のことについては全く素人の立場で,私自身は別にカトリック信者ではないんですけれども,カトリック大学の教授をいたしておりまして,カトリックの方々の考え方っていうのは非常に身近に感じております。その中で,この倫理審査委員会に参加させていただいて非常にいろいろ勉強をさせていただきまして,今先生からお伺いしたES細胞の問題を,むしろ移植に伴うさまざまな倫理的な問題を解決する方向として考えてらっしゃるのはとても共感できるところがあります。私も,姉妹でドナーになるかどうかということで長年苦しんだという学生から長い手紙をいただいたこともありまして,先生のおっしゃることはとてもよく分かります。
 ただ,1つ,2つお伺いしたいのは,まずこの倫理審査委員会に入れていただいた最初にも思ったことなんですけれども,ES細胞についてのここでの議論というのは,もうES細胞というものは存在する,京都大学から譲っていただくことができるという,そこのところから出発していて,それをどう使うかというところにすでに話がいっているように思いました。ES細胞は余剰胚というものからできるということなんですけれども,私はむしろその生殖補助医療というそっちの方に疑問というか抵抗を強く感じているところがありまして,余剰胚を作ってしまうということの方に,その胚に人格があるかどうかということよりも,そういうものを人間が作ってしまうということの方にちょっと恐ろしさを感じるところがあるんですね。それとはもういわば切り離された段階でこっちの話は進んでるような。だから,生殖補助医療について先生はどのようにお考えかということをちょっとお聞かせいただきたいのと,それともう一つこれはとっても素人的な感想なんですけれども,この委員会に入れていただいて最初にとっても抵抗を感じた言葉が実はありまして,細胞を飼うっておっしゃる表現がありますよね,動物を飼うように。初め,頭の中で文字が変換できなくて意味が分からなかったんですけれども,やっぱり素人からはとっても抵抗を感じる言葉でした。
 それから,もう一つ滅失するとか樹立するとかっていう言葉は,飼うという言葉とは逆に,非常に客観的で余り何ていうかリアルな感じがしないので割合気にしないで使えてしまいますよね。それだけに,何かそのことのリアルな重さから遠ざかったしまうような,そういう感触を受けます。私は言葉に関係のある仕事をしている人間なもんですから,その滅失とか樹立とかって言葉にリアルな手触りがないことの怖さっていうのをちょっと感じるところはあります。
 特に後のはもう感想のようなことなんですけれども,生殖補助医療についての先生のお考えをちょっとお伺いできればと思います。
申請者A: 生殖補助医療に関する分野は私の専門ではないので,逆に私はその専門外の,逆にある意味で素人に近い立場の意見になると思うんですが,例えば私たちの分野で患者さんがいろいろな病気で悩んでおられます。恐らくそれと同じように産婦人科の領域では産婦人科なりの問題を抱えておられるんだと思うんですね。そこではヒトの誕生に至るまでのプロセスにいろんな介入をするということが非常に非倫理的であるという言い方や感情が当然生まれると思うんですよね。特に日本では,恐らく欧米諸国よりもより盛んに堕胎が行われてますし,それからフランシスコ・ザビエルが日本に来たときに,その一行が目撃して一番心を痛めたのも日本人のその行為であると。そのほかの日本人の行為は非常に倫理的な民族であるけども,これだけは分からないと,このような言説があると聞いております。
 翻って,現在のブッシュ政権はそういった堕胎を認めないという非常に厳格なキリスト教の立場をとっておりますし,そういう意味で我々東洋国家は相当違う倫理観を長い歴史の中で持っているんだなとも思うわけです。そのことと,もう一つはやはり医学が進歩して,今度は科学的にこの問題を扱えるようになって,産児制限というのは国策としてこれまでも展開されてきました。その国策としての,いわゆる公衆衛生のそういう科学技術からさらに進んで,それが個人の要望にこたえられるようになってきて今の生殖補助医療があるんだろうと思うんですね。そういう意味で,そもそもそういった科学技術の進歩に伴ってそこで少しずつ生殖にかかわる技術あるいは知識が広まってきて,そういった個人の要望にこたえてしまったとすれば,もうそこは引き返ししができない部分ではないかなと思ってしまうんですよね。
 今,逆に私は今回気がついたのは,確かにそうだなと思ったのは,そこに余剰胚がいて,無理やり凍結を強いられ,沈黙を強いられている現実が存在するということです。ES細胞などの新しい細胞に再生すれば,むしろ余剰胚という命を救ってるのじゃないかなというような,そういった逆の意義を見い出したかのような気がいたしました。
A : 私たちは細胞の培養をしておりますので細胞を飼うっていうことはルーティンに言うわけですけれど,それがある種の違和感を持って受けとめられるということに私はちょっとこれまた驚いたんですけど。やっぱり話を聞いてみなくては分からないなと思いました。私たちの意識の中では細胞というものは本当にほかの実験材料というものよりはやっぱり生きているということがあって,飼うっていうのはまさに生き物の世話をするというニュアンスがあるので,何ていうか細胞をおとしめてるような意識は全然ないんですよね。もしもそれを変えるとすれば,例えば細胞を育てるとか,何かそういう言い方があるのかなとも思うんですけれど。現実の問題というか,普通のサイエンティフィックな世界の中ではむしろ飼うということもやや丁寧さの意味を込めたような表現かなと私自身は思ってるんです。
 それから,先ほど滅失云々ということは,滅失に関しては随分文科省の専門委員会というか,あるいはその前の前段階の指針を作るような段階で言葉をどうするかっていうのは随分議論があったようでして,まさに先生がおっしゃるように恐らくはニュートラルな意味なのでそういうものを採用しようということになったんじゃないかと思いますけどね。
 どうでしょうか,そのほか。D先生,どうですか,お願いします。
D : 私は細胞を飼う立場でもありましたし,それから医療教育を受ける中で御遺体を献体していただいて,それを解剖実習に使わせていただくというような立場にあるわけなもんで,人は死んだ後でも自分の体を社会に生かしたいと思うお気持ちというのはよく分かるんではないかなと思ってます。自分自身も裏を返せば何か事故があったときにはそうなるかなとも思いながら生活してるわけですけども,その中でこうしたES細胞の倫理委員会の倫理委員としてメンバーに入れていただきいろいろ考える機会がありました。申請者A先生のお話を伺っていて,生殖補助医療で受精卵が眠ったままであるというお話を聞いてふと思ったのが,あるときに自分の体のリザーバーとしてそれを保存しておいて,何かあったとき,私自身の体に何かあったときにそれを代理母の中に入れてあるところまで育てて,そして自分の体のリプレース,臓器移植の材料として使ってしまうというような発想が何年か前に出ていたと思うんですね。それこそ本当にインモラルな部分だと思うわけなんで,それと引きかえ,細胞の段階で,胚としては滅失しますけども,その細胞が広く,誰とも分からず,皆さんに使っていただけるという面であれば,私が本当に胚であれば,それも一つの人生かなと思って納得するとこじゃないかなと思うわけです。そういう段階になってきますと,まさにいろいろな考え方があると思うんですね。宗教とか人生観とかいろんな形があって一概に語ることはできないと思うんですけども,ただそうした,申請者A先生の移植にかかわることでの申請者A先生の思いも聞かせていただきました。この気持ちを医療従事者としてのES細胞の研究に携わる人たちだとか,また先生御自身が教えていかれる医学系の学生さんたちに対しての一つの教育的な意味合いもあると思うんですよね。ですので,先生御自身としてお考えは分かりました。また,これを今後どのように社会に対して生かしていこうとされるか,その部分もちょっとお聞かせ願えたらと思います。
A : 社会?
D : 社会でございます。ですね,ですから,医療だけではないですね。社会の皆さんの心の成長というんでしょうか,そういう部分もあるでしょうし,医療従事者に対する生命倫理感といいましょうか,そうした教育にかかわる考えをお聞かせ願えたらと思います。
申請者A: このES細胞の恐らく科学技術ってのは,このまま順調に進んでいけば非常に大きな福祉をもたらすと思います。そして,それだけにこのES細胞の倫理的な問題について多くの人たちが論議し,あるいは科学者であればそれを経験することによって,生殖補助医療の問題に気づき,それからアメリカの歴代の政権が問題にしてきた堕胎の問題も今まで以上に普遍的な問題として立ちあらわれてくるんじゃないかなというような感じがいたします。
 移植医療の場合は,やはりごく一部の人しかこの恩恵にあずからないですよね。したがって,やっぱりその何らかの犠牲によって贈与するというような行為,非常に倫理的,道徳的に大きな内容も含んでますけども,やはり今の日本の現状では余り国民全般が本気で,広くあまねく考えておられるとは思えないんですけど,ES細胞の技術は非常に普遍性がある技術になってくると思いますので,そうすると小学生一人一人が,あるいは中学生が,そして大人がそのことを今まで以上に真剣に考えるようになる,そういった影響があるのじゃないかなと,今回私自身がこの問題を勉強しながら感じました。
A : 先ほど申請者A先生の議論にありました,凍結されて使われなければ焼却される余剰胚を活用することが新しい命を生かすことだというお考えは,ある意味では理解できるんですけども,ただし,そこにおのずから当然限界があるはず。極端な言い方をいたしますと,人の遺体というのはすごい利用価値があるわけですね。御承知のように欧米の一部では遺体からさまざまな材料をとって,それを使って新たな生理活性物質を抽出したり再生医療に生かそうとしております。ただ,やっぱりそこには限界があるべきであって,特にこういう医療の問題,倫理の問題,医療倫理の問題っていうのは,何ていいますか,ある意味では世界全体,人類の中の問題ですけれども,やはり自分たちの近いところの社会がどう考えるか,その社会とどう折り合っていくかということが非常に大事なので,今の場合で言えばこれは日本の中で行われてるわけだから,日本の人々の常識というか,そういうことが非常に重視されるべきだと思います。そうすると,日本では遺体を損壊するということには非常に抵抗感があるわけで,そういう意味で日本ではそうした応用に今歯どめがかかってるわけですね。
 ES細胞も,確かに活用すればいいんだけれど,その面だけを言ってると,それだったら別に特定の区画でもやる必要もないし,誰がやったって結果的に成果が出ればいいという議論になってしまうわけです。「指針」にヒトES細胞を扱うときも,それなりの気持ちを持って扱いなさい,特別な区画でやりなさい,ちゃんと資格を持ったっていうか,いろんな意味でクオリファイされた人が扱うようにということの裏には,結果として成果が出ればいいというのではなくて,そのプロセスにもそれなりの心を持ってやりなさいということがあるんだと思うんですよ。活用して新しい命を引き出す,それはもう大事なことで,それも僕は「指針」の中にある精神だと思うんですね。つまり,うまくいかなければ結果としてむだにすることになりますから,実験を成功させることはすごく大事であって,それが担保されてるかどうかということは非常に厳しく要求されてるわけですけれども。それだけではなくて,やはりそのもうちょっとソフトの面というか,精神的な面もあるということは指摘しておかなくてはいけないんじゃないかと私は思うんですけどね。
 どうぞ。
E : よろしいですか。今,A先生がおっしゃったことと同じようなことを言わなければいけないかなと迷ってたところなんですが,「利用価値があるから利用してよい」という,その判断はストレートには出てこないですね。受精胚が凍結されて,いずれ滅失されると。それはもうこの世に出てこない運命であるから,それを利用していいという判断を誰が行うのかと。先ほどA先生が遺体の利用ということをおっしゃってましたけども,これはとりあえず本人,あるいはぎりぎり家族,遺族等のインフォームド・コンセントということで正当化される。しかし,胚の場合は,胚自体が権利や義務や道徳の主体としての性格を潜在的に持ってるわけですね。だから,妊婦というか,親がそのことを決定できないのではないかというふうに考えられる。とすると,本人というか胚自体が何も言ってないのに,それをそのような利用をしていいというふうに誰が考えるのかと。これ,非常に大きいところだと思うんですね。そのあたりの問題があると思います。
A : 申請者A先生,何かコメントございますか。
申請者A: まさに今,A先生の御指摘にあった臓器移植,それ以外の組織移植ですね,そういうものも現実の医療に利用されてるわけです。ですから,そういったことが許されるのは,あくまでもそれを提供する側のインフォームド・コンセント,その人の意思ということで成り立ってる。そこですべてのことが許されてる部分があるわけですね。確かに,E先生御指摘のように,胚に関しては,胚は物は言えませんから,そういったことに対する歯どめが胚の場合にはないですよね。臓器移植の場合,脳死移植を飛び越えて生体移植まで認めている一番のよりどころはインフォームド・コンセントなのですから,それが担保できないような医療は本来存在するべきでないという気持ちはやっぱり今回勉強しながらつくづく思いました。
 ただ,先ほどから私も強調させていただくのは,しかしながら私の目の前には生体移植のスケジュールがあるわけで,毎月3人も4人も全く健康な人を傷つけなければいけないという現実があります。これは,言うなればイラクで戦争してるアメリカの兵士みたいなもので,現実に戦場があるわけで,敵を殺すという非倫理的なことをやってるわけですね。同様に,現代の生体肝移植という医療というのは,私の思いでは相当非倫理的で,だからこれをより倫理的なレベルに戻すためには,私としてはESに希望をつながざるを得ない。しかし,そのときにはインフォームド・コンセントはとれないんですね。ですから,これを倫理的に解決する方法は,僕は恐らく,強いていえば宗教の存在しかないんじゃないかなと思うんですね。もう神様がそれはしてもいいよと言ってくだされば,それは可能かなと思いますね。でも,ローマ教皇はそれを認めていない。ですから,私としては,今E先生が御指摘になったこの1点については立ちようがないというか,非常に苦しいです。
E : 「健康な人を傷つけてしか生体肝移植ができない」ということが,胚の滅失というか,その先の利用を正当化するかというと,少なくともストレートにはできないと思うんですね。胚本人というか,胚自体はインフォームド・コンセントなんかはとてもできない。どうやって正当化できるかと。これはもう功利主義的な判断しかないと思うんですが,一言で言えば社会ですね,社会がそれを正当化すると,そういうふうにしか言えないだろうと思いますね。
A : 申請者A先生が現実にそういう患者さんを目の前にしていつもある意味では泣きの涙で健康なドナーの体を傷つけざるを得ないと,そういう状況の前で何かほかの手段がないかとお考えになるのは,これはもう当然自然なことでよく理解できます。それから,その可能性の中にES細胞が入ってくるっていうのも,科学的根拠も,これはもう随分議論したところですけども,それも十分あって,そのことは理解されてるし,それから今の世の中で,日本でもちろんいろんな御意見があるわけですけれども,でも基本は少なくとも専門委員会が定めた指針というものがあって,その指針に基づいてやってればそれは大多数の人からは容認されてるだろうと思います。だから,基本的にはこの計画を進めるっていうことに問題があるわけじゃないんですけれど,今ここでの議論は,確かに先生のおっしゃるとおり,やむを得ずES細胞なんだと。だけど,やむを得ないんだけれども,そのやむを得ない気持ちっていうのは,一方でできれば使わなければ使わない方がいいという気持ちがあるからやむを得ないという言葉が出るんであって,なぜ使わなくて済むんだったら使わないでいたいのかというと,それは胚に由来する,胚を滅失してから作る細胞だからっていうことがあるわけですよね。ということは,その胚というものに対して,先生御自身がどういう思いがあって,どういう感情があるのかということからそこが出てくるわけですよね。申請者A先生御自身,つまりこの日本で生まれて,医療をやって,外国にもいろいろ行かれていろんな見聞をした先生個人がどういうふうに思われるかということが今ここで話題になってる中心であって,もうちょっと言えばローマ教皇が何をおっしゃろうが,それは関係ない話なんですね。先生のそのフィーリングを理解しやすい形で表明していただければ,委員の皆さんはそういうことを伺って,ああ,申請者A先生はああいう感覚で,ああいう感情でもってこの細胞を扱おうとしておられるんだと,だから具体的な問題が起こっても多分あの心で対応していただけるんじゃないかということが分かってくれるんじゃないかと,多分そういうことが一番のキーポイントかなと思ってるんですけど。
申請者A: ちょっと,私の現実は移植なのでまた移植の例を挙げさせていただきますけども,例の法隆寺に玉虫厨子っていうのがあって,そこに絵がございまして,お釈迦様の前世のサッタ太子という人が身を投げて獅子に自分の肉を食わせてやるという,その死によってそのサッタ太子はお釈迦様に生まれ変わるということがあるんですけども,やはりぎりぎりのところ,一つの命を犠牲にして次の命が生まれるということを信じざるを得ないというか。それは仏教でもそうですし,キリスト教でもそうですし,教えの根幹を成すところはその精神であります。したがって,ここはもう人間の意思を超えた部分でありまして,すなわちインフォームド・コンセントが通用しない部分であって,すなわち受精胚の権利とか尊厳というのが一たん消えた後,あるいは消した後,次なる命が生まれるということを信じるしかここは抜けられないと私は思っております。したがいまして,そのありがたさというものが単なる人間の存在に対して尊敬の念を払うという,個人に対して尊敬の念を払う以上のものがありまして,そこはES細胞から生まれるありがたさっていうのは,その個人の努力には帰せられない,個人が達成,いかにすばらしい科学者あるいは王様がこの世に実現しようとしても達成できない,そのはるかに大きなものを余剰胚の犠牲というものはやっぱり含んでいるなと,そういうことを信じることによって,ここから先を歩むことができるんじゃないかなと,そのように思います。
A : ありがとうございました。
 ほかに,B先生,いかがですか。
B : ES細胞は非常に大切な存在であると考えていらっしゃるのはよく分かったんですが,ヒト胚とヒトES細胞はイコールではない,同じものではないですよね。この違いに関してはどのような認識をお持ちでしょうか。
申請者A: 今まで私が申し上げてきたことは,主に受精胚についてです。そこからまた取り出してきたES細胞というものは,それはそのある程度全能性を失ってるわけですから,全く同じではないですけども。しかしながら,またそれは生殖細胞になるという意味では,そこからまた全能性を取り戻す可能性もあるわけでしょうから。そういう意味で,違いはあるけれども,本質においてはそんなに差はないであろうというふうに思っています。
D : だから,もうES細胞の方にはES細胞にバラ色の人生が今後広がっていくんだよと言われて,細胞がどんどん増えていっていろんなとこで活躍するかもしれませんけども,滅失される立場に当たった胚というのは決して自分の意思でそれを選んだわけじゃないわけですね,ある意味では周囲の人たちは細胞になればどんどんとバラ色の人生が広がるから,その胚にどうぞ滅失してくださいとお願いするようなもので,何と言いましょうか,昔の魔女狩りというような感じを思うわけですね。その地域なりその時代の人たちは,その人たちが焼き尽くされるのを当然だと思ったのが魔女狩りだとは思うんですけども,それに近い形で,その細胞がつぶれたらみんな助かるからという形で犠牲を強いる立場になるわけであります。その胚に対するその考えというのはそれなりに持っておかないといけないと思うんです。それが今,B先生の言われたお言葉にちょっと関係するんじゃないかと思ったんですけども,それに関しましては,先生いかがでしょうか。
E : 僭越ですが発言しますと,胚の場合は将来我々と同じような人間になる可能性があるということですね。権利や義務の主体となり得る可能性を持っている。しかし,ES細胞の場合は,基本的にはそういう要素はない。細胞の一つ,通常の細胞と由来は違うけれども,同じように考えられる側面は当然ある。しかし,根本的に違うのは,胚は,よく言われる「可能的人」であるという,ここのところだと思うんですけど。
A : 今D先生言われたことは,なるほどそういう面もあるなというふうに思うんですけれど,先生は魔女狩りと言われましたけど,僕の感覚だと何かいけにえか人柱を立てるみたいな,そんな感じかなと思って話を聞いてたんです。ただ,胚というものを人と考えるのかそうじゃないのかということの議論は,これは随分あったわけですし,我々もいろんなこと考えてきたわけですけれど,やはりポテンシャルということと,現実にそうであるっていうことは随分違う話ではないかと思うんです。先ほど胚はインフォームド・コンセントもとってないじゃないかって議論もありましたけれど,それはまあ当たり前のことであって,意思っていうものが存在しないということもできるわけですよね。胚に意思があるのかって言ったら,やっぱり意思っていうものはある程度,それこそ中枢神経も発達してある程度のシステムができなければ意思っていうのは存在し得ないわけであって,それをやはり同じように見るわけにはいかないだろうと。そうすると,胚が本当にいけにえになって,人柱になって,苦しんで,嘆き悲しんでいるということ自身がやや過剰な,何ていいますか,感情移入かもしれない。だから,どのあたりに限界を置いて考えるかということが問われてるんじゃないかと思うんですね。私個人的には,やはり意思があるとは思えないし,おのずから個体としての人間とは違うであろうというふうに思ってるんです。ただ,これは初期のころにも議論になりましたけれど,それじゃあ単なる細胞でいいのかっていうと,そうではないという,割合何か中間的みたいな存在ですね。恐らく中間的な存在であるということは皆さんコンセンサスだと思うんですけど,それがどの程度個体のヒトに近いのか,どの程度っていうのは多少バリエーションがあるんでしょうけど,そういうふうに思った方がいいのかなという感じです。つまり,やや過剰に感情移入するのもどうかなというのが,僕自身の感覚です。
 申請者A先生,どうですかね。
申請者A: その感情移入というのは,やはり胚の受精胚の親の問題だろうと思うんですね。そうなんですね。現実に今の脳死移植の場合は,死体,脳死体っていう,だから客観的には意思を持ち得ないような状態のその脳死体から臓器提供をいただけるかどうかということで,既に生前の本人の意思表示があれば臓器提供が可能であるというのが現在の法ですが,それに対して今医学界は,その本人の意思表示がなくても周囲の同意があればいいという形に改正したいというような動きも大きく広がっております。その脳死者,脳死臓器提供がかほど問題になるのは,やはり脳死状態の人に対する,やっぱりその人を死と認めるかどうかというか,その人とのかかわりですよ,御家族との。恐らく受精胚の問題は,やはり赤ちゃんを作ろうとその御夫婦のお気持ちがやっぱりその中には込められておりますから,余剰胚といえども,我が子には違いないし,その気持ちを我々は決して忘れてはならないということだとは思います。我々は移植をやってることのちょうど反対側の極に,やはり受精胚というもの,特に余剰胚というものが存在してるというふうに思っております。
A : 今申請者A先生がおっしゃったことは,ああ,やっぱりそれは非常に重要なことだなと思いました。私は先ほど,胚がポテンシャルに,これから先にどうなるかということの側面しか言わなかったんですけども,先生が今御指摘になったのは,胚がそこに存在するまでのプロセスの中に御両親の思いがあるということを指摘されて,確かにそれも非常に大きな要素だなというふうに感じました。
 C先生,どうですか。
C : 私は研究者の立場にありまして,先生の研究内容とか,そういうのは非常によく理解できますし,またきょういろいろ先生のお話もお伺いしまして考え方がよく分かったんですけれども,先ほどのちょっと話にもありましたけど,細胞を飼うという,その飼うという言葉一つをとっても,この委員会の中ではそれに非常に違和感を感じられる方もおられると。この委員会が社会全体の考え方を反映しているところではないかなと思うんですけど,そういう中で,先生,今までの議論の中でどのように感じられたか,ここをちょっと聞かせていただきたいんですけれども,そういう医療関係者以外の方の御意見に何かそういう御意見があるということに関してですね。
申請者A: 私,外科医なんで外科医で手術するときには,ある意味で相当日常的な感情を殺してることが結構多いんですね。さっきの言葉の問題もそれと似たようなところがあると思いますね,俗に言う業界用語というようなところ。飼うという言葉は決して科学技術的な言葉ではないので,ある意味で我々の業界の日常用語ですね。だから,そういった御指摘の中に,じゃあ何らかの失われた感性があるんじゃないかと言われると,うん,なるほどなというふうに思いますし,また確かにその言葉を改めるということは必要なのかなとも思いました。
 だから,先ほどの留学生の話を出させていただいたのも,ベビーと言ってるのは,やはり留学生がその実験をしながら,やっぱりちょっと今までの細胞と違うぞということの表現だろうと思うんですよね,これがマウスのESじゃなくて,さらにヒトのESになったら,若い留学生たちの言葉がどういうふうに変わるのか,それはまたそれで楽しみな部分だと思います。
C : 少し言葉の問題は一例でして,医療関係者とか研究者以外の一般の方々の考え方というのはかなり違う面もあるかと思うんですけれども,そういうことに関してどう感じられたかということをちょっとお聞きしたいんですけど,ちょっとうまく表現できてないかもしれませんが。
申請者A: 確かに,今私は自分の提案した研究の動機づけを移植医療の現実から引き出しましたけども,これって恐らくある意味でどなたにも分かっていただけないんじゃないかというような気もしてます。だから,先生がおっしゃられましたように,そうではなくって,もう少し一般の人が分かるような意味づけ,動機づけが必要なんじゃないかと言われたような気がしましてちょっと今考え込んでおりますけど。はい,済みません。
E : 申請者A先生が移植でいろいろ考えられるところがあって,健康なドナーを傷つけることは大変大きい問題と,そういう動機からこのES細胞利用の今回の研究を考えつかれたというのは,動機としてよく分かるんですね。しかし,先ほども申し上げましたけれども,そういう動機があるからストレートにはそういう胚の滅失から利用行為をストレートにはやはり正当化できないだろうと思うんですね。例えば1人の人が死ねば100人の人が助かる,1人の人の臓器を全部分配すると100人の人が助かるから,あなた死ねとは言えない。このように通常の人間についてならばそれは当然分かるんですが,そうでない胚の段階だから難しくなってくるわけですね。胚に我々と同じような権利や義務や道徳の主体性を認めることはできないけども,わずかでもその要素があるのではないかというところでひっかかってきているわけですね。それを正当化することは,当然胚にインフォームド・コンセントをとれないわけですから,「本人がいいと言ったからその人(胚)を殺してもいい」という問題ではない。「私が死んで100人の人を助けてあげましょう。だから,医師かどなたかが私を殺してください」と。それはやはり殺人の問題になるわけですね。そのあたり物すごく難しいんですが,同じことを申し上げますが,ぎりぎり社会が正当化するということです。その手続をいろいろ踏むことによって良心の呵責も軽くするといいますか,そういう要素もあるというふうに考えます。
A : 確かにそういうことが今は問題になってるのかなと思ってるんですよ。今,E先生がおっしゃったように,動機そのものは非常によく理解できて,それはもう既にここでも議論もしましたし,理解はできる。確かにE先生がおっしゃるように,ストレートに正当化できないことは事実なんですけど,ただだから今度は胚自身をどうなのかということの議論がもちろん世の中ではあったし,この委員会でも随分議論をいたしまして,そして胚を滅失したES細胞を使ってある限定された条件下での研究は認められてしかるべきであろうというのが世の中でも認められてるし,この委員会でも委員のお一人一人がまあそれはよかろうという話になったと。だから,それはそれでいいんですけど,要するに申請者A先生が,先ほども僕が言いましたけど,胚を使うということに対してどういう感情があって,どういうブレーキがかかってるのかなということがここで今話題になってるのだと思うんですよ,だからそういうことを今やってるわけでしてね。
 G先生いかがですか,何かありますか。
G : この専門委員会における質疑のところで,結局は使用責任者の倫理的姿勢についてもう少しこの倫理委員会でやれということですね。
 だから,私は端的にお尋ねして回答をいただきたいんですけれども,まず1点は,ES細胞を提供された方に対するリスペクトあるいは態度,考え方。2点は,そのES細胞自身に対する考え方,実験をやられる方,使用者ですね。そして,実験結果に対するリスペクト,その3点。そして,さらにそれらをひっくるめてこのES細胞を使っての実験を,いいか悪いかというのは,やはりE先生がさっきおっしゃられたように社会が決めることであり,あるいはその結果について,この倫理委員会も責任持てばいいと私は思いますけれども。そして,「その啓蒙活動」と,こう書かれてますけれども,とにかく以上の3点を皆さんにどういうふうにすれば理解していただけるか,その方策ですね。社会の理解と同意を得る方策をどういうふうに考えられるか,お聞きしたいと思います。
A : 先生が最初におっしゃったES細胞の提供に対するリスペクトというのは,これは胚の提供者ということですね。
G : これはいいですかね。
A : いや,ES細胞の提供者と言ったら京大の中辻先生かなと思う,そうじゃないわけでしょ,胚の提供者ですね。
G : 提供者です。そしてその細胞へ対するリスペクト。
A : そうですね。じゃあ,申請者A先生,今具体的な質問がございましたので,それについてコメントをどうぞ。
申請者A: もうそれはこういった命の提供をいただく場合,それに対する私たちの気持ちというのは本当に強いものがあると思ってます。それは自分の日常の医療というのが移植がかなり大きな比重を占めてますので,ドネーションという言葉には,私の人生にとっても特別な響きがあります。現実に生体移植ではドナーさんのお世話をする,あるいはそれを気遣うというその具体的な中にリスペクトが込められておりまして,このたびの胚を御提供いただいた,私はどこのどなたか存じ上げませんけども,逆にどこのどなたか分からないだけにその気持ちが一層大きいように思います。
 それから,ES細胞につきましては,やはり普通に考えればただの細胞と見過ごしてしまうところですが,やはりヒトの発生あるいは生命の発生という過程を知るにつけ,その可能性についてやはり大きなリスペクトが生まれますし,またそのESの発端である胚,そしてその提供者のことを考えてもそういった気持ちは当然生まれておりまして,また若い人もそういった気持ちでその細胞を扱っておる,それはまだ今動物ですけども,動物に対しても胚あるいはESに対してもそういう気持ちが生まれておるのは事実であります。それだけにやはり結果はそういった背景にふさわしいものでなければならないとは思いますが,研究ですから必ずしもいつもうまくいくとは限りませんけども,幸い私どもの研究者は非常に才能もありますし,一生懸命やっておりますので,期待できるんではないかなと思っております。近い将来,御評価いただければありがたいと思います。
 社会の御理解の件でございますけども,1つにはそういった成果が出てくる中で理解が期待できるんじゃないかとは思うんですが,しかし,やはり一つの命が失われたということを,あるいはそういった失わせるように至った科学の進歩のその向こうに何があるんだろうかという不安ですね,これはやはり一方ではまた大きくなるのかもしれないと思っておりまして,やはり今回のこの委員会の論議のように,こういった論議がその都度やっぱり十分積み重ねられて,そのことが公表されて,世の中に伝わっていくことがそういった理解を得ていく方法ではないかなと思います。
A : よろしいですか,G先生。
G : 提供者へのリスペクトや,ES細胞での実験のことについて,単純明快な分かりやすいコンパクトな回答を作っていただきたいなと,思います。
 以上です。
A : 申請者A先生,何かコメントありますか,今のG先生の。まあそういう方向で努力して頂くということですね。
 はい,じゃあE先生。
E : 今,G先生がおっしゃったリスペクトというのは大事な点だと思うんですね。
 まず第1番目は,胚の提供者に対するリスペクトといいますか,感謝の気持ちとかというのは大事だとよく言われてますね。それから,胚そのものに対するリスペクトと,胚は可能的人間である,権利や義務の主体であるというところから,胚そのものが尊重に値するということですね,あるいは尊厳を持つという言い方ができるかもしれないですね。それから,ES細胞に対するリスペクトです。これは,ES細胞は多能性を持っているとか,研究上,非常に有用であるという,そのことはあるんですが,しかし,それだから尊厳性,尊重性が出てくるかというと,そうではないんですね。「細胞」という意味では,ほかの人体由来の細胞も同じ程度に扱っていいはずだと私は思っています。
A : 先生の今の発言について,ちょっと一部理解できなかったのは,ES細胞はほかの細胞と同じように扱ってもいいというようにおっしゃったんですか。
E : ES細胞はなぜ特別扱いされなければならないかというと,その「胚滅失」という由来のところにかかわってるからです。細胞という点ではほかの細胞も同じように「主体」としての尊厳を持ってるわけではないけれども,人間由来であるというところからして丁重に扱われなければならないという倫理的要請はあるという意味なんですね。
A : 分かりました。確かにそういう議論はこの委員会でもありましたし,大体そういうコンセンサスになってんじゃないかと思うんですね。
 H先生は何かございますか。
H : 最初に,ずっとお話を聞かせていただいた感想的なことを申し上げます。今日言葉に対する違和感というのが幾つか出ていますが,私は余剰胚の余剰という言葉にすごく違和感があります。その余剰胚を生かすという申請者A先生のお考えは,生体肝移植をずっとなさってこられたということもお聞きして本当に共感できるものもあるんですけれども,一方で違和感もあって,これは堕胎がなぜいけないかとか,その胎児を利用することに問題がないのかということとも近いのかもしれません。もちろん生体肝移植の問題はよく分かりますが,一方で胚や胎児にはその人自身の人生はその後ないわけですし,犠牲,宗教的な言い方をすれば,いわゆるサクリファイスが尊いのはその人の意思があるからでもあるでしょうし,そしてさっきE先生がおっしゃったように,尊いとしてもそれを社会が許していいのかということはあると思います。つまり,自殺は許されるのかといったこともあると思っています。
 申請者A先生に3つ質問させていただきたいと思います。
 1つは,研究なさっていて細胞というのは動物と人間の間のどのあたりの,例えばどちらに近いかとか,どの辺の位置にあるというふうに感じられているのかということです。2つ目は,生体肝移植のドナーのお話があって胚についてもかなり似た感情を持っていらっしゃる,そういう意味で非常に大切にしなくちゃいけないと思っていらっしゃるというのは心打たれるものがあったんですけれども,一方でドナーと胚というのは大きく違っているところがあると私は思っていまして,どこが違っていて,その違っている胚を滅失するということについてどう思っていらっしゃるのかというのをお聞きしたいと思います。それから最後は非常に抽象的な質問ですけれども,なぜ命を大切にしないといけないと思うかということについて,多少一般論になってもいいのでお聞かせいただきたいと思います。先端医療全般に含まれる倫理的な問題として,どこまで救命を追求するのか,そしてそのときに別の命を傷つけたり犠牲にするということが出てくると思うんですけれども,どこが問題だったり,限界なのかということについての先生のお考えも伺えればと思います。よろしくお願いします。
申請者A: 細胞が動物と人間の間のどこに位置するのかというのは,ES細胞ということですよね,ヒトのES細胞。
H : 限定しなくてもいいです。一般の細胞とES細胞は違っていると思っていらっしゃるんでしたらそれぞれにお聞かせ下さい。
G : 私が答えましょう,細胞の専門家だから。質問自身が非常に難しいですよ。
H : 感覚としてどう思っていらっしゃるかをお聞きできれば。
A : ちょっといいですか。やはり細胞をちょっと限定しないと。つまり動物の細胞とヒトの細胞と,ヒトのES細胞というのは相当違っていて,今申請者A先生が答えを言われるんだけれど,恐らくその定義によって場所が全然違うんじゃないかと思うんですよ。個体と細胞というと,どうしても個体の方がより上位にあるというのが普通の感覚なんですね。動物の細胞が動物の個体より低いとこにあるのとある意味で当たり前のことであって,そうするとヒトの細胞をどこに置くか,あるいはヒトのESをどこに置くかという話でしょ。
H : では,人間の細胞と人間のES細胞についてお願いします。
A : そうそう,そういうふうに限定して。
申請者A: ですから,ES細胞というのは,人間の体を構成してるほとんどすべての細胞になり得るんですよね。そういう意味で,ある意味で無限の可能性を秘めた細胞。我々がふだんよく見ている細胞というのは,大体運命が決まっていて,寿命も決まっているような細胞なんですけども,ES細胞にはそれがないんですね。ですから,無限に増殖もしますし,それからその増殖をとめれば,まだそういう技術が十分あるわけじゃないんですけども,いろんな細胞になり得るということで,そういった可能性を秘めているんですね。そこに非常にES細胞を眺める姿勢の中に功利的なものも生まれてくるわけなんで,本来ES細胞はそういうふうに眺められる存在ではないんだと言われていながら,ちょっとそこに非倫理的な態度が生まれると思います。
 それからドナーと,それからいわゆる余剰胚には似たようなところがあってというような私の思い入れについて,それは理解できるけども,胚の滅失というものをどう感じているのかというお尋ねでしたですよね。
H : ドナーと胚の違い。
申請者A: 違いですね。ですから,先ほども申し上げましたように,ドナーから我々が臓器を,命をいただく場合ですね,それはドナーの承諾があるわけです。インフォームド・コンセントがありまして,生体の場合は,無論そのとおりですけども,それから脳死体の場合も生前その方がこういうふうに使ってくれという意思表示があるということにおいてのみ我々いただけるわけです。しかも,全部ではなく部分ですよね,脳死体といえども部分です。ですが,胚の場合は,先ほども言ったように胚には意思表示できないわけですんで,この胚にかわって意思表示しているのは恐らく両親が意思表示をして提供されてるということです。移植の場合にもそういう例がないのかというとありまして,現実に例えば腎臓なんかの提供の場合は,本人の意思がなくても現行法でも周囲の家族が認めれば臓器をいただけるということは現実に行われています。
 ですから,そういった現実があるから,ある意味で胚について,余剰胚ですから,胚自体は全体を表していますけども,幾つかあった胚のうちの一つという意味では部分なのかもしれません。そういった意味で,部分についてその両親がドナーとなって、インフォームド・コンセントを経てそれを提供するということは,現在の我々の社会の一般の人たちの感覚の中にもある程度あるのかなと,許されてあるのかなというふうな思いはいたしております。ただ,厳密に言えば,胚の滅失というのは,胚自体が全体を表していますから,完全に一個の消失ではありまして,他の臓器移植の臓器提供とは比較はできない重い意味があると思います。
 それから,先端医療は果てしなく医学が進む中で命の大切さというものをどういうふうに考えるのかということですが,これって非常に難しい質問でして,私が例えば行政の立場に立つときと,それから例えば一介の医者として立つときとちょっと自分自身の考え方や行動が違ってきますが,我々医療現場におる人間としては,やっぱり溺れる人間を見たらやっぱり助けなきゃいけないとか線路に落っこちた人間は助けなきゃいけないという,そういった感覚で,要するに命というのは代わりがないという存在ですよね,かけがえがないということで,一般論では言えないという意味で命の大切さというのを考えています。
A : 最初の質問のところで,最初の質問に対するお答えのところで,先生,ES細胞がマルチポーテントだからというふうにおっしゃいましたが,先ほどからも議論が出ましたけれど,やっぱりES細胞のある種の尊厳というのは,ポテンシャルがあるからじゃなくて,やっぱり由来の方が重要なんだというふうな認識だと思うんですけどね,その点ちょっと先生,言葉足らずというか。
申請者A: いや,それはごめんなさい,反論するんじゃないですけど,質問の趣旨をそういうふうに限定してお答えしたということです。
A : それは多分そういうことじゃないと思うんですよね。僕が理解したところでは,僕がもしさっきの質問に答えるとしたら,つまり私たちは,人間個体というのはある種の尊厳をもって見ているわけですよね。動物も,例えば研究に使うといったときには,ある種の感情をもって動物を扱うことになります。そのときに細胞をどういう感情でどの辺に位置づけられるのかというようなそういう質問じゃないかと思うんです。そうですよね。
 だから,僕だったら,例えばヒトの普通の細胞は動物個体以下ですよ,私は。やっぱりそれは動物でもやっぱり個体で生きていて,こっちを見てにらんだりするじゃないですか,そうするとやはりそれを言葉は悪いですけど,犠牲にするということはやっぱりちょっと目をつぶってやるということが必要なわけで,私はそういう理由もあって,実は細胞を主な研究材料にしてんです。だから,ヒトの細胞は,ヒトの体に由来する細胞はそれほど思っていませんよ。だけど,ES細胞はまた別です,それは由来が別だから。だから,恐らく人間個体と動物個体の間ぐらいに入るかなというのが僕の感覚ですが,そういうことを聞いてんです,先生。そういう質問だったんですよ。
 先生,どうぞ。はい,どうぞ。
E : 「尊厳」とか「尊重」とか「丁重取り扱い」とか,これらはある意味で程度概念なんですね。「丁重取り扱い性逓減則」というものも考えられる。同じ臓器でもすでに取り出されて何年も経って干からびたものと移植用に取り出されたばかりの生きた臓器とでは丁重取り扱い性は違う。臓器と組織でも違う。組織と細胞でもやっぱり違う。そこのところをHさんは尋ねられたと思うんですけども,つまり丁重取り扱い性の差ですね。そこでES細胞と普通の細胞はどう違うかという点ですが,細胞という意味では人体,人間由来というところで同じ程度の尊重取り扱い性が要求される。しかし,出所が違うんですね,ESの方は,先ほどA先生がおっしゃったように受精胚を滅失してできるという,その出所のところが違う,そこがより高い尊重取り扱い性を要求する根拠になっているだろうと,多能性ではなくてですね,そのあたりのことが一つ大事なところではないかと思うんですね。
 もう一つ,ドナーと胚の提供の点,Hさんの2つ目の御質問なんですが,申請者A先生が例に出された臓器提供の場面で、生体からでは本人のインフォームド・コンセント,本人の承諾なく提供することはあり得ない。死体からはあり得ますね。しかし,胚の場合は,生きている。それを提供する。胎児の場合も同じようなことが問題になるんですが,胎児は死亡した胎児を研究用に利用する。生体臓器提供の場合,本人の承諾なく提供されることはあり得ないけれども,胚の場合,生きている胚が胚自身の承諾なく提供される。ここは物すごく大きい違いなんですが,この点はやっぱり押さえておく必要があるのではないかと思うんですね。
申請者A: 生きている一個の命を滅失するということは,それ自体のどこをとってもそれを侵すことはできないんですよ,だからこれは……。
E : その場合は,移植の場合は,あり得ないです。
申請者A: いや,移植じゃなくて……。
E : 胚の場合はあり得るわけですね,あり得たわけです。そこのところを正当化するものは何かというと,それはやはり社会が功利主義的に,ある意味で言葉は悪いですが,打算で認めていくと考えるしかないだろうと思うんです。
申請者A: だから,そうすると僕もさっき例出したんですけど,戦争で人を殺すことは許されるというのと同じ次元に受精卵の滅失もあり得るということですかね。つまり,社会が許せば何でもオーケーだと。
E : いや,戦争はですね・・・。
申請者A: だから,僕は戦争の命を失わせる行為と今回のESの滅失とを社会という名によって同レベルに置きたくもないというような気も実はしてまして。
A : これはかなり原点の議論になるんですけども,社会がオーケーと言ったと今おっしゃいましたけども,社会を構成しているのが我々なわけですよね。我々はもちろん社会全体じゃありませんけれども,社会の一部であって,我々がここでこういう議論をしているということもそれが全部積み重なって社会がそれを容認するかどうかということになってくるのだと思います。胚の取り扱いでも,今のところはこの範囲ということに大体になっているという線がありますけれど,例えば今日のこの議論でまたそれがちょっとずつ変化していくだろうし,結局その辺の歯どめをどうするかということだと思うんです。
 いろいろまだ議論がおありだろうと思いますけれど,時間も一応の制限があります。必要であれば多少の延長は構わないんですけれども,このあたりで実際にヒトES細胞を使って実験をされる予定の申請者B先生と申請者C先生に総括的に一番大事なポイントについてお考えを伺いたいと思います。先ほどから幾つか質問が出ていますけれど,G先生が言われたES細胞に対してどういう物の考え方をするのかというそこが一番の基本だと思われますので,その由来も考慮しながらES細胞に対して先生方がどういうふうに考えておられて,その考え方に基づいて具体的にその実験を進めるに当たってはどういうところに留意しながらやっていこうとされているのか,そのことについて順番に説明していただければと思います。
申請者B: 岡山大学の申請者Bでございます。活発な議論,まことにありがとうございました。
 胚の提供者へのリスペクトという件でございますが,どこのどなたが御提供してくださったかこれは分かりません。それだけに将来的な生命の誕生,そういうようなある意味ではこの命を提供してくださったということに関しまして深い畏敬の念をもって感謝の意を表しております。
 そして,ES細胞に関しましては,やはり普通のヒト細胞をこれまでたくさん扱ってまいりましたが,やはりそういうものに比べてかなり人間に近い細胞であるというように認識して,誠意ある誠実な取り扱いをしたいというふうに考えています。
 具体的に言いますと,無謀な計画を立てて実験の失敗を繰り返すということは非常にまずいだろうと考えておりますので,計画性を持って,そしてやはり有用なデータを必要最低限の材料から研究成果を出したいということも考えますので,非常に入念な研究計画を練るということを考えています。
 そしてまた,ES細胞に対するリスペクトの一つとしまして,その細胞を専用の実験室で取り扱いを行い,出入りに関しましては入退室の記録をとる。そして,部屋にかぎを締めるというようなあたりを普通のヒトの細胞とは違うリスペクトの表現としてさせていただきたいと。
 そして,社会への御理解に関してでございますが,これは我々研究者としてやはりできることは,成果を分かりやすい言葉で社会の方に報告させていただきたいと。1つは,近年非常にインターネット等も発達しておりますので,そういうとこで情報の公開をする,ないしは市民公開講座というようなあたりも行っていくと。しかしながら,こうした最先端の研究がやはり身体への過剰な介入を起こすというふうなこともやはり将来的には大きい問題となりますので,こういうとこに関しましては,市民と一緒に教育活動を行うというようなことを含めて考えていきたいと。まず第一に,岡山大学の学生を対象にそういうような取り組みを本年度から行っていきたいというふうに考えています。研究データの開示,そしてそういう研究の有用性を一緒に考えていくようなそういう教育をやっていきたいというように考えております。
 以上でございます。
A : ありがとうございました。じゃあ,申請者C先生。
申請者C: 岡山大学の申請者Cです。
 ES細胞そのもの,それから胚を提供してくださった提供者の方への考え方ですけども,これまでの議論の中でも出てきましたが,生命の萌芽たるものの一部を取り出して我々が使用する細胞であるということをかんがみて,その細胞を理解するだけでなく,実際にその取り扱いにおいては,正しい使い方をすることによって礼意にかなった取り扱いをしていきたいというふうに思っております。
 それと,胚の提供者の方につきましては,我々は臨床家としても常に患者さんの立場に立って考えたりするのと同じように,研究計画にないような使われ方をしたり,一部の理解がない使用者によって使われたりというようなことが決してないように,提供してくださった方の気持ちに立って細胞を使っていきたいと考えています。
 この細胞に以後携わっていく人を育てたり,あるいは自分自身もこの細胞とこの細胞の取り扱いに関する勉強をずっと続けていきたいと考えております。
A : はい。ありがとうございました。
 それでは,委員の皆様方から今申請者B先生,申請者C先生に何かコメント,御質問ございますか。よろしいですか。
 それでは,もうそろそろ御退席いただく時間なんですけれど,最後にこれだけは聞いておきたいということがございましたら,よろしくどうぞ。よろしいでしょうか。
 それでは,今日いろいろ質疑をいたしまして,随分長い時間お答えいただいてどうもありがとうございました。
 ES細胞に関しましては,これからもさまざまな問題を含んでいて,社会全体としてもそうですし,この委員会でもいろいろまた今後の事態を見ながら考えてもいきたいと思います。
 今日これで話が全部終わったということではなくて,実際に使用者の側でも今後も引き続きお考えいただいて,また情報を交換し合いながらよりよい対応をしていくという方向でやっていきたいと思いますので,その面でも御協力のほど今後ともお願いいたします。
 では,ありがとうございました。御退席いただいて結構です。
 
(申請者退席)
 
A : それでは,いろいろ今日質疑をしていただきまして,総括的にいかがでしょうか。
 基本的に申請者A先生はこれまでの御経験がいろいろございますし,今日考え方をいろいろ伺いまして,もちろんES細胞についての細かいところでもう少しお考えいただいた方がいいかなというところも多少ないではない,それからちょっと質問についてのコンヒュージョンも多少ありまして,質疑が100%的確でなかった部分もありますけれども,特に問題とすべきところがありましたら,皆さん御感想をお伺いしたいと思いますけれども。
 G先生,いかがですか。
G : 私さきほど言ったけど,とにかく分かりやすく単純明快に答えていただきたいと思います。申請者A先生独特の言い回しで言われて,回りくどい感じがします。単純明快過ぎても困るかも分かりませんけれども,とにかく分かりやすく本質にずばりと入って答えていただいて,申請者B先生の回答は非常によくまとまってましたね。そういうふうな形でいいんじゃないですか。そして,提供された方はやはりそれが将来社会に役に立つであろうという善意がありますから,やはり研究をなるたけ成功させる努力をやるというようなこともつけ加えてほしかったなと思いました。
A : ありがとうございます。今日は結局追加の質疑をいたしまして,現実に口頭で質疑をした上で,申請者A先生を中心とした使用者が倫理的に見て,この研究計画を大過なく遂行できると認めるかどうかという結論を一応出していただくことになりますんですけど,お一人ずつ確認をしたいんです。
 G先生,よろしいですか。
G : はい,よろしいです。私はいいと思います。
A : はい。じゃあ,H先生お願いします。
H : 今日,先生方に実際に来ていただいて色々なお話を伺えたこと,こういう追加の委員会が開かれたのはすごくよかったと思います。直接お考えを伺うことができたので,もちろん何の問題もないということはないかもしれませんが,今回のこの計画についてはいいのではないかと思います。
A : ありがとうございました。E先生。
E : いいと思います。
A : C先生。
C : 結構です。
A : B先生。
B : このような感じで直接にディスカッションができて非常によかったと思っています。いいと思います。
A : D先生。
D : はい。岡山大学にとっても初めての経験ですから,私たちも発展途上ですし,研究を遂行されようとされている申請者A先生のグループも発展途上だと思いますんで,その中にあって申請者A先生の熱い思いが伝わってきました。結構だと思います。
A : I先生,お願いします。
I : はい。私は,今日のお話しを大変興味深く伺わせていただきました。さっきG先生が申請者A先生のお話について,ちょっと回りくどいというふうにおっしゃってたんですけれども,私は今日のお話をお伺いして,このES細胞についての問題と,それから臓器移植の問題,それから生殖補助医療の問題,その医療にかかわるいろんな倫理的な問題がどれか一つ単独で考えることができないほど複雑に絡み合っているということがとてもよく分かって大変勉強になりました。
 その中で,やっぱり歯切れよくいくわけがない,どこをどうやっても清廉潔白などっちから見ても問題がないようなやり方なんてあり得ないということで,どうしても回りくどくなってしまう,あっちを立てたらこっちが立たずというふうな中で,最もリーズナブルな判断をしていくしかないんだなということはとてもよく申請者A先生のお話から分かって,ああいうふうに逡巡するところも大いにおありになるということが本当に分かったのがとてもよかったと思います。
 全体としては大変結構だと思います。これならやっていただいていいんじゃないかなという気がいたしました。
A : ありがとうございました。一応出席の委員の皆様全員これならばゴーサインを出してもよかろうという承認をいただいたということで,今日御欠席のK先生とF先生には今日の議事録をお送りして,こういう議論があったんだけれども,最終的にどうお考えになるかということを確認した上で,その結果をまとめて文科省の方にお送りをして,できればそれで承認をいただきたいということになると思います。すべてが順調にいきますと,それが最終的に専門委員会の委員長のところに行って,情報そのものは各委員にも行くはずですけれども,それによって承認されますと,実際に研究がスタートするということになります。
 したがって,本委員会は恐らくその研究がスタートする時点でもう一度,今度は研究がスタートした後に我々としてはどのようにモニタリングしていくかということについての方針を検討できればいいのではないかと思っております。
 時期に関しましては,また御連絡差し上げますけれども,早くても9月ですし,何だったら10月ごろになるかもしれません。またメール等で御連絡いたしますので,どうぞよろしくお願いします。
 それでは,ほかにございませんでしたら今日はこれで終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。