岡山大学大学院医歯薬学総合研究科ヒトES細胞倫理審査委員会 第16回委員会議事録
日 時:平成19年11月5日 午後5時35分〜6時35分
場 所:医学部小会議室(医学部管理棟3階)
出席者:A,B,D,E,F,G,H
欠席者:L,K
 
A : それでは,引き続いて,平成19年度第2回のヒトES細胞倫理審査委員会を開催いたしたいと思います。
 お忙しいところをお集まりくださいましてありがとうございました。
 今日の議題はあらかじめ御通知申し上げてありますけれども,4時からヒトES細胞の現況とか指針の変更点,変更点については我々はもう既にコンセンサスを深めたところですけれども,それを踏まえて,特に分化細胞の定義というものがこの次に出てきますので,その勉強会をいたしまして,その後にいろいろな知識がフレッシュなうちに少し議論をして,疑問点とかそういうところを整理しておけばよいかなと思って,引き続いての委員会をお願いいたしました。
 今日は特別何かを決めるということではありませんでして,委員の間で疑問点とか相違点を少しフリーディスカッションのような形で総括いたしまして,12月かあるいは1月になるかもしれませんけれども,実際の使用者側からどういう形で分化細胞の取り扱いをしたいかということの意見も伺いながら,対応を具体的に決めていきたいと思っております。
 まず,今日の講演会の内容につきまして,御感想でも結構ですし,それからこういう点は私は違うと思うというような点でも結構ですし,あるいは少し分化細胞に関しましては専門的な話もございますので,特にそのことを専門にされていない委員の方々にこういうところは理解できなかったということもおありかと思いますので,そういうことがあればここに出していただきたいと思います。ここには細胞の専門の先生方もいらっしゃいますので,その先生方も含めて少し議論ができたらと思います。
 何かございませんでしょうか。
 H先生,実験とかそういうことをされていないという意味では専門外ということだと思うんですけれども,どのような感想をお持ちでしょうか。あるいは疑問点などございましたらどうぞ。
H: 前段の技術的なところはストレートに言えばよく分からないんだと思うんですけれども,笹井先生が数年前と違って培養が容易になって,そういう技術的な転換を受けて今回の指針の転換があったとはっきりおっしゃったのは,ああそうだったのかという感じです。つまり技術的なこととの関連が指針の改定にどういうふうに,あるいはその背景にある考え方にどう影響を与えたのかということを改めて考えるべきだなと思ったということと,分化細胞の考え方というのが今回大変大きなことだと思うんですけれども,今日のお話は具体的に,こういうケースはこうなりますよというような説明と,定義についても非常に技術的というか,科学的というか,そういう議論を中心に行われていて,分化細胞になった時点で同等になるのは,倫理的には,あるいは一般の社会から見た受けとめとしてはどうなのかとか,そういうお話は余りなかったなという印象がありました。
 それから,既に前の指針でそうなっていたということだったので,これは私の不勉強ですけれども,ヒトES細胞由来のものを動物に移植した時点でそれは廃棄と見なされるということも,少し衝撃的な言葉でした。これは雑観的な感想ですけれども。
A : 今のお話の中でES細胞が分化細胞になった時点である種取り扱いが変わるということの受けとめ方が,そんなに変えていいのかという思いが世の中一般の人にもあるかもしれないということなんですけれども,そこのところは非常に大事なこと。一応新しい指針ではそのように扱いますよということにもうなっているんですけれども,この倫理審査委員会の委員の方々にもある程度それを心に落としてもらわないと,具体的な基準も決めようがないですから。だからそこのところをどう考えればいいのかということは大事な問題だと思うんです。
 ただ,私たちのように実際の実験,ES細胞は取り扱っていませんけれども,ヒトの細胞とか組織とかを使って実験している側からいいますと,それは割合すんなり心に落ちてくることです。というのは,例えば今日も話がちょっと出ていましたけれども,同じヒト由来の,例えば胎児由来の細胞でも20年飼われている,30年飼われて,世界中どの研究室にもあるような細胞というのは,それはマウスの細胞とはちょっと違う気分を持ってはいますが,何かそこに尊厳を感じて大事に扱おうというほどでもなくて,実験材料の一つにすぎないという気持ちです。この場合はES細胞からですけれども,それが分化して限定されたポテンシャルしか持たないということになれば,割合抵抗なく受けとめられる,私一人の個人としてはそういう感じがするんですけれども。今の点について御意見ございますか。
E : 以前,「再生医療」という雑誌に,「ES細胞に尊厳はあるか」という論文を書いたことがあります。結論を言いますと,尊厳という言葉が当てはまるのは一個体としての人間,すなわち権利や義務や道徳などの主体的存在のみです。だから例えば手や足そのものに尊厳はない。腎臓が1つない人は尊厳性が落ちるかというと,そうではない。個体としての人間に尊厳という言葉は使う。したがって,ES細胞そのものに尊厳はない。ただ,人間由来である物質,例えば,細胞も組織も腎臓も髪の毛も,全部,人間由来のものであれば,人間に由来しているというだけで丁重に取り扱われる必要が,程度は別にして,ある。だから,A先生が通常使われている細胞もES細胞も同じレベルで,まず細胞として,尊厳ではないけれども,丁重取り扱い性があると思います。しかし,例えば,同じ臓器でも,生体や死体から摘出されたばかりの腎臓とホルマリン漬けにされている腎臓とでは丁重取り扱い性が違うんですね。これを,「丁重取り扱い性逓減則」といいます。
 ES細胞の場合は,多能性があるから丁重に取り扱われなければならないということではないと思います。そうではなくて,胚を毀滅したという負の遺産を背負っているところに由来してES細胞は丁重に取り扱われなければならないということになると思います。それが分化細胞になったときに,その負の遺産はどこまで行っても続いてはいるわけです。だから,今Hさんの持たれている疑問というのはそこにあるのではないかと。分化細胞になったらもう普通の細胞と,A先生が扱っていらっしゃるほかの細胞と,同じになっているわけですが,それでも何か特別なものはあるんではないかと一般の人には思えるだろうと私には思えるんですね。これこそ,この負の遺産が続いているという,連続しているというところから来ることだろうと思います。
A : 私は先生の尊厳という言葉の使い方の定義,そういうふうに使われているんならそれでもいいんだけれども,別にその使い方がすべてだと思っていません。要するに個体だけに尊厳があって,尊厳という言葉は例えば手には使ってはいけないとは思わない。というのは,私は要するにある種の尊厳,つまり尊厳がだんだん逓減されて,先生がおっしゃった逓減の法則で逓減されてきたものにも僕がさっき言った尊厳はあてはまるのです。言葉をどう当てはめるのかは別にして,でも分かります,それは,だんだん逓減される。
E : 今の丁重取り扱い性。
A  : うん,そうそうそう。
E : 部分には尊厳はないと。
A  : いやいや,それは言葉としてはいいんです。これは言葉の定義だから。基本的には同じような感覚持っていると思うんです,僕も先生も。部分に対してはある種の大事にしなければいけないことがより少ないと。ES細胞についてもやはりそういう感覚があって,ES細胞がここにある,それが分化して例えばずっと培養される,どこかずっとかけ離れたものになっていけばいくほど先ほどE先生のおっしゃった逓減の法則が成り立って,私たちとしてはその取り扱いが違っていても受け止められる感覚はあるということです。多分この逓減のカーブがどの程度だと思うのかということなのかもしれません。
E  : 多能性を根拠にするならば,それはもうなくなるわけですよね。通常の細胞と同じになっているんだからいいではないかとなるんですが,胚を毀滅したという負の遺産は背負っているというところからするならば,連続していて,しかも連続しているけれども少しずつ先生おっしゃるようにもう時間はたっているし,減っていくというのはあるかもしれないですが,余り減らないだろうなという気もします。そういう議論になるともう……。
A : そうそう。だからそれがどの程度減るのかということですよね。
 どうですかね。
E: それは……。
A : 最初のスタートからそうですけれども,一応指針が出されて,指針の中でやっていくということですので,指針を逸脱してはいけないのは当然ですけれども,岡山大学のこの倫理審査委員会としてどういうことを決めるかということは,ある種の自由度に任されておりますので,例えば仮定の話ですけれども指針では認めているけれども,岡山大学の医歯薬学総合研究科の倫理審査委員会としてはこれは認めないという決定も一応可能なわけです。だから,そういう意味では委員の先生方もそういうあたりのところをどの程度に考えるのかということはそれぞれに心に落としていただきたいと思うんです。
 F先生いかがですか。
F: 今日の講演会,非常に勉強になりまして,自分自身これまで分かっていなかったところもよく分かったんですけれども,先ほど来からずっと議論になっている分化細胞だったらこういうふうに扱ってよろしいよという取り扱いの異なることになったということについては,どうも腑に落ちないところがありまして,哲学的な論争をしてもあまり生産的ではないと思うのです。
 ただ,先ほど尊厳というので少し盛り上がったので,そこで少しだけ触れますと,私は尊厳と言われると保護法益といいますか,権利義務関係の土俵での尊厳というようなイメージを持つので,そもそもその尊厳を持って取り扱うというES細胞に対する指針の表現が最初からずっと腑に落ちなかったところがありました。敬意を払ってということであればよく分かるんですけれども,尊厳を持ってと言われるとそれはどうなんだろうという違和感が,最初から実はあったんです。ただ,それは法律的な見方・考え方ですからそれから離れて,哲学的にあるいは人の考え方として,一般用語としての尊厳で考えたときには,感覚的に理解できますけど。分化細胞の取り扱いについて,例えは悪いかもしれないんですけど,原料と材料みたいなものなのかなと。原料は厳格に取り扱わないといけないけど,材料は比較的フリーに使ってよろしいよということなら,なぜ,では原料から材料になった瞬間にそういう形で取り扱えるのかと。例えば原料の段階では環境とかあるいは他人に害を及ぼす影響があるけれども,材料として加工されたのであればそういった第三者の権利を侵害したりとかということがないから,大丈夫だから材料だったらよろしいよというような構造であれば非常に納得がいくんですけれども,必ずしもそういう構造というかそういう背景があるわけでもないわけですよね。そうすると,では分化細胞になったら取り扱いが柔軟になるというのが,どうもなぜ柔軟にし得るのかという,そこがどうしても気にかかるところがあって。
 あとこれは議事録的には非常にまずい発言になるかもしれませんけれども,ヒトES細胞の研究については,人の権利義務関係というか,他人の権利を侵害しているとは言えないので,どうも法律的に考えるのは余り向いていなくて,むしろ私の立場としては指針という,要するに政府の出したある種法的なガイドラインをきちんと遵守しているかどうかを,手続的にチェックするということぐらいしか私にはできないなと。むしろそれが期待される役割なのかなと思いました。
A : 別に不都合なことは何もないと私は思います。先生の今お話しになったことはなるほどなと思って伺ったんですけれども,後の方のことに関しましては,確かに先生が専門が法律ですので法律的な観点,特にあるルールがあったときにそれがそれから逸脱しているかどうか,適合しているかどうかを判断されるのは専門の範疇ですので,そういう観点から御判断いただくというのは非常にありがたいことですけれども,倫理審査委員会に必ずしも法律の方を入れなくてはいけないという規定がないんです。もちろんもちろんそういう面でのサポートも非常に大事ではあるんですが,私はむしろ人はそれぞれ自分の専門によって考え方とか感情もある程度左右されるという面がありますので,法律を学んだ人としてどういう受けとめ方をされるのかということも大事なことではないかと思うんです。そういう意味では規則に合っているかどうかだけではなくて,そういうことを学んだ個人としてこのことにどういう感覚をお持ちになるか,感情をお持ちになるかということも大事な面だと理解しているんです。
 それからもう一つ,前半の問題に関しましては,いろいろ伺ってみますと私は先ほど実験をしている側からいうとそれはすんなり受けとめられると申し上げましたけれども,伺ってみますと確かに分化細胞をぽっと切り離して取り扱うというところにどれだけ根拠があるかというと,余りないですね。
 多分これはかなりプラクティカルな面で,結局研究を進行させたいと。1つは先ほど出ましたが技術的な進展があったという背景と,もう一つの背景はこのくらい実績があって,その間余り変なことは起こらなかったと。だから,国民の側から見てもまあまあES細胞の研究もちゃんと行われているではないかというその信頼も大きいと思うんです。だから,この両方のファクターでもう少し研究を活性化して,具体的な応用につなげられたらなという思いがあるんだと思うんです。だけど,根本まで変えたくない,だから一番応用に近いところでもう少し自由度を高めようという,かなり現実的な判断でそういうことになったのではないかと思います。原理原則に立ち戻ると簡単には分化細胞を別に扱ってよいと考えにくくない,確かにそういう面があるんでと思いました。
F: だからといって理屈がきちんとしていないから分化細胞を比較的緩やかに使うのはけしからんという見解でもないんです。研究することは必要だし,ただ細かいことを言うと,なぜ緩やかに扱いうるのかという理屈って実はないのでは?ということなのです。
A : 分かりました。
 そういうことを意識してしておくこともすごく大事だと,私は思いますので。
H: 今お話を伺って,もう一度自分の中で明らかになったところがありまして,例えばさっき申し上げた移植した時点で廃棄とみなされるというのも結局同じ感覚だと思うんです。つまり変わらないではないかということだと思います。そもそもES細胞を使った研究をしてもいいという判断をした時点で,ある意味それは現実的な判断をしたということですから,F先生がおっしゃったとおり分化細胞で扱いを変えることを反対するかと言えば,そうではないという判断が指針も出ているわけだからあるわけですけれども,しかしそういうことがあるたびに倫理的な問題を議論することが重要だと思います。怖いのは,例えばこの分化細胞の考え方で,分化したかどうかで変わるのだと,だから未分化細胞がとにかくなければいいんだとか,それを分けるためにどういうふうにしたらそれがより少なくなるかとか,そういう技術的なところにどんどん話が行って,それは本質的なことではないんではないですかという印象を受けてしまう。学内か企業かによって変えるというのも一体それは何ですかという印象を一般の人は受けるのではないか。私の中にもそういう違和感がありますので,結論よりも途中のところで,そして研究者の方が何度もそこに立ち返って,方便として尊厳があるというのではなくて,いかにそれを何度もリマインドするかということが重要なのではないかなと感じました。
A : ありがとうございます。
 今の御指摘は非常に重要なことだと思います。そういう意味でこういうフリーなディスカッションをする委員会というのを設けさせていただいたってのもよかったなと思っているんですけれども。というのは私自身の頭の中にあったのは,どういうふうな基準で定義を決めたらいいかという方に考え方がかなり行っていたんです。そうすると,もうあとはPCRを何回回して,免疫染色して何%以下とかという話になってしまいますので。確かに実際には最後はそういうこと決めなくてはいけないんですけれども,やはり今Hさんがおっしゃったように,研究者が原点に立ち返るという心を改めて持つということを分化細胞の定義においてもそれをきちっと入れ込んでこの委員会としての見解を決めていくことが大事だと思いました。
 I先生いかがでしょうか。
I : 今日のお話なんか聞いていると,研究を始めた以上どんどん研究がスムーズにいくようにっていうふうに変わっていくんだと,私やHさんのような立場の者が倫理委員会に入っていることの意味って何なんだろうっていう疑問がわいてきます。分化細胞の定義がどうのこうのっていうともうちんぷんかんぷんなわけで,なんだかいなくてもいいんではないかという気が一方ではするんです。
 それと,今,Hさんがおっしゃったことで私も同感な部分があるんですけれども,今日お話を聞いててヒト胚に由来するからという1点で倫理性が問題になっているような感じを受けたんですけれども,素人の感覚って必ずしもそうではないと思うんです。全く素人の感覚で言うと,こういう医療の進歩というのはとってもありがたい一面何か怖い感じを受けるところがあって,その怖さは人間を作ってしまうような方向に行くような怖さとか,それからもう一つ言えば大きなビジネスにかかわっていきかねない怖さです。お金のある人だけがいい治療を受けられるというような,前にもそういうことを申し上げたことあったと思うんですけれども,そういうことに対する素人の不信感というのがあって,ヒト胚だからということではない倫理的な危惧っていうのが素人の感覚としてはあるんです。だから,そういうことからいえば,分化したからどうのとかということでは全然なくて,研究全体が本当にいい治療を開発していくためというのはいいんですけれども,そこにビジネス競争みたいなものに展開していきかねない危険性というのがどこかにある。それにはチェックを絶えずしなければいけないし,ヒト胚に由来する尊厳という縛りに立ち返ることで関係者の方たちが倫理性ということを絶えず意識するということがとても必要なのではないかなと,外野としては感じます。
F: ちょっとよろしいですか。今のI先生のお話を伺ってて,講演を聞いているときにふっと自分で思ったことが浮かんできたんですけれども,このES細胞については尊厳とか丁重にとかいうのが,最初にあったということではなくて,何か後づけの理屈のような気がするんです。つまりできることとやっていいことといいますか,I先生が言われたように,ほっておいたら際限なくビジネスに利用されたりとか,あるいはヒトをつくり出してしまったりとかというところまで際限なく進歩してしまうんではないかと。それはやっていいんだろうかと振り返るときに何か規制する概念が必要になって,ある意味後づけ的に規制する概念を尊厳とかなんとかをくっつけてきたようなところがあって,だから例えばそもそもこれは守らないといけない利益ですよとか,あるいはこれをやると人の権利を侵害しますよということが出発点にあって規制するということになったんではなくて,規制しないといけないんではないかという危機感から規制する理屈を後でつけたという,そういうのが非常に感じられて。その危機感は宗教的価値観などにも関係すると思いますけど。このES細胞に対する見方にぶれが生じやすいのも一般の法律的な規制と違って,結局後づけで規制しているからぶれるのかなというのを非常に感じたんです。これは個人的な感想ということで。
E : I先生もF先生もいろんな問題についておっしゃっているので解きほぐしますと,移植医療や再生医療などを含めてもう医療全体がビッグビジネスになってしまっているんですね。それで,ビジネスが悪いかというとそうでもなくて,ここがまた議論が長くなるのでやめますが,我々はもう戻れないところに来ているんですね,ビジネスの関係は。
人間を造る,これはクローン人間のことかもしれません。それはまた別な問題として当然あります。クローン人間がなぜ悪いかという議論も逆に生命倫理の分野であるわけです。
 それから,F先生のおっしゃった,後づけで人間の尊厳が出てきたという点ですが,確かにそうでして,人間の尊厳の概念というのは昔からあるんですが,生命科学をコントロールする基本概念のようなものはなかったので,「溺れる者が掴む藁」のようなものとして登場したと私は考えています。世界じゅうの誰一人として「生命科学の進むべき道はこちらだ」と明確に言えないんですね。グランドビジョンを描ける人は一人もいないわけです。そこで人間の尊厳というのを後づけで,まさに借りてきて,生命科学をコントロールしようとしている。もっといいものを探すべきだという気がしますけれども。
A : 確かにいろいろな問題があり,個々の問題はすごくおもしろくて,いろいろ議論すると際限なく,ある意味では楽しい部分でもあるんですけれども,権利の侵害のことで私が思いますのは,F先生は権利の侵害がある場合に法律を作ってそれを規制しようというのが多くの法律だとおっしゃいましたよね。今のこの生命科学研究の先端の部分に関して言うと,余り侵害される人はいないと思うんです。だけど,倫理とは何だろうということをいつも考えているときに,1つは自分の権利が直接侵害されなくてもある種の行動が世の中に存在するということだけで嫌だということがあって,そういうことも大事なことですよね,一つのコミュニティーとして生活するためには。今の生命科学の研究のある部分はそういうところを含んでるので何か規制が必要だろうということだと思うんです。そういう意味からいえば後づけと言われれば後づけかもしれませんけれども,逆に言えば命とか生きているということとか人間のありようというものに対してある種の,言葉は何を使うにしても敬意を持っているということは事実ですよね。我々自身が自分たちが存在するためには自分たち自身の集団に敬意を持っていなければ多分ソサエティーとしては成り立たないわけで。そういう尊厳的なものはもう人間の社会が生まれたときから既にちゃんとあって,それが侵害されるかもしれないという危惧があるときには,何らかの規制をしようという動きが出るのは当然のことだと思うんです。
F: 先生おっしゃるとおりですけれども,ただ倫理とか道徳とか,倫理道徳と法との関係というのは時代によってかなり移動するものがあって,日常生活における倫理とか道徳とかというのは,あれは少しそれに違反する態様が度を超しているとすぐ法律的な問題になっていくんです。ところが,こういう新しいES細胞の倫理というのは,行き過ぎたから即例えば犯罪行為が成立するとかということでもないわけです。例えば日常生活で周りの人に迷惑かけないようにしましょうということは出発点は道徳的な問題なのですけど,ひどい騒音をまき散らしてそれを継続していると,相手に心身の障害を生じせしめて傷害罪だという形に変化します。倫理・道徳違反が度を超すと法律違反に結びついたりすることがあります。あるいは倫理だとされているものが法律ができて法で縛られるとかという,時代によって動いたりとかということがあるんですけれども,今のところES細胞の取り扱いに不適切なことがあれば文部科学省から行政的な処分を受けるだけで,特に法律的な制裁を受けるわけではない,もちろんガイドラインというか指針だからということもありますけれども・・・。その意味での違和感ですね。
E : 一般にガイドラインに違反したから云々というところに問題が矮小化されがちですが,そういう問題ではなくて,やはり人類全体の未来にかかわる問題という認識が必要でしょうね。生命倫理の分野には2つありまして,3つあるんだけれども,今のところ主なのは2つ。ひとつは医療倫理です。これは今F先生がおっしゃったような患者対医師の問題,自己決定権を侵害しているとか,医療事故を起こしてこうだとか,権利義務の問題として認識できる問題です。そうではないところの生命科学や医療テクノロジーをどうコントロールするかと,エルシー,ELSIと書いてEthical, Legal, Social Issues, そういう言い方をするんですが,もう全体認識なんです。一見小さい問題だけれどもそれが全体につながっていって大変なことになるんではないかという認識なんです。患者対医師の権利義務の問題とは別な問題なんですね。
A : 何かございますか。
 G先生どうぞ。
G: 3つのことを話したい。1つはこのES細胞の研究の最終的な目的というのは人の病気を治す,そういうところに行っていると思います。やはり究極の目的は医学なわけで,アルツハイマー,パーキンソン,まだ手に負えない病気がいっぱいあるわけで,それらの病気をよくすることに対して研究者は夢をかけてやっている。ビジネスもあるかも分からないけれども,病気を治すところに向かって行っている。そうではなかったらES細胞の研究はやれないと思う。今日の笹井先生の分化細胞の定義,そして,その分化細胞をどう始末するかというところも非常によくできていたと私は思います。これは進歩だと思う。それによって研究は進めていくべきだと思います。それが1点です。
 2番目は,今ES細胞使った分化細胞についてのいろいろ議論されているけれども,今日質問をしたかったけれども,言いそびれたんです。ES細胞はその株自身が日本に大変少ない。ES細胞株樹立の規制をもう少し緩めるべきではないかと私は思っています。これは議題を外れるかも分かりませんけれども。そういうES細胞を作るということに対しては大学の研究室でグラントをとるのが無理なら製薬会社はES細胞を使って薬の開発に役立つので,製薬会社の研究所でも日本の株を作っていくべきだと私は思います。ES細胞株樹立で非常に日本は遅れている。それが2点目です。この規制ももう少し考える必要がある。
 3番目は,先程出た問題です。1981年にエバンスがマウスのES細胞を作りました。私はその論文を読んですぐ,人間のES細胞を作ろうと思って,受精卵を日本の産婦人科のお医者さんに頼んだが誰もくれなかった。それは産婦人科の倫理規定がすごくあったんです。だから,アメリカでも1981年にマウスのES細胞ができ,人間のES細胞は1998年です。非常に長い間,倫理の問題で悩みました。その間にアメリカも倫理規定を整備してES細胞を樹立してきた。その後,実際にES細胞が出来た後でクローン人間の問題とかいろいろ出て,規制が整備されてきたと私は思います。
 だから,私から言えば今その整備してきた規制が,きつ過ぎて研究が進んでないと思う。だから,こういう分化細胞のような規定を作って緩めて,今最終の目的,医学的な病気を治すという方向に向かっての研究を進めないとES細胞そのものの研究をやる意欲がなくなる。だから,非常に長い間,ES細胞が出来て以後,いろいろな倫理問題があって,歴史があるわけです。
A : ありがとうございます。
 今先生のおっしゃったことも特に研究者の側から見るとかなりそういう御意見もということだと思うんです。2番目のES細胞を作ることに関しましては2番目の樹立機関がもう名乗りを上げているようですし,それから海外から細胞を導入するということについても割合積極的になってきております。岡山大学でも今回の変更申請で外国株を導入するという,文科省の専門委員会としては日本で樹立するのと基本的に同じような基準を満たしている場合は導入して構わないということになっておりまして,既にその株をリストアップしているんです。それに関しては全然問題がなくて,この前もそれで認めていただいたと理解しております。
 B先生,何か。
B: 今日はいろいろ異なった立場からの意見が聞けて学習することが多かったんですけれども,研究者の立場として,まずはG先生が指摘されたES細胞の樹立を京都大学で樹立できてもうそれで終わり,それ以外は厳しくて許さない,しかし一方では外国からES細胞が入ってくるのは認めましょうというのは,少しそれ自身は矛盾を含んでいるのではないかという気はします。ただ,胚を滅失してという部分でどこでもやっていいという問題ではないので,そのあたりの法整備規則なのか,そのあたりをよく議論をして,その京都大学で樹立できたので終わりというのではなくて,そこを考えなければいけないのではないか。そこにはやはり生命倫理の概念というのはいつも研究者の側も持っていて,考えながらやっていかなければいけないんではないかなという気が,今日のお話を聞いていてしました。だから,京都大学で供与されるものは唯一のものであるというのは少し片手落ちかなという気はしました。そこを広げていくというところではまた難しい,規制をも含めて問題があると思います。
 あとは,私は分化細胞を使ってもよろしい,分化細胞は規制から外しますといったときのその定義の仕方など,今日ある程度示していただいて,ある程度は整理できたんですけれども,それを実際に岡山大学の例えば研究グループが分化細胞はできたのでこれを供与します,ここと共同研究しますといった形で倫理審査委員会に持ち上げてきたときに,私たちはそこのところの判断をそれはいいでしょうとか,それはだめですという,そこの判断をするのがかなり難しいなということを考えながら話を聞いていました。そこにまた別の難しさがあるような気がします。分化細胞になった途端にいいんですよというのは,先ほどから議論を聞いていて,確かにそこで直線で一線を画すのは難しい部分はあると思うんですけれども,どこかで線を引くというのはいずれにしても難しい問題なので,分化細胞になったときにはこういう条件のものを分化細胞とみなして,それはある程度自由な研究の対象としますという,その方向性としてはこれからの課題かなという気はしますけれども,具体的には難しさを感じます。
A : ありがとうございます。
 確かにその点が一番の問題です。ただ,我々としてはどこかである種の線を引かざるを得ない。現実に研究者の方は研究者の方として指針の範囲内で自分たちは研究を進めたいと思っているはずです。それで申請を出してこられたときに,倫理審査委員会としてはもちろん個人の考えを基準にしながら,世の中の全体を見ながら,やはりそれに対して対応をしてあげるという義務もあるわけでして,そのためにはどこかで線を引いて具体的な基準を示してあげなければいけない。先生がおっしゃったように,分化細胞を定義するのは難しいですが,はいこの場合はいいですよ,これはだめですよと言わざるを得ないので,具体的な基準を決めなければいけないんです。その難しさの前に今日の研修会も開催させていただいていたんですけれども,そういうことを踏まえてこの次の委員会までに先生方,どの程度具体的かは別として,ある種の心づもりを用意していただけたらありがたいかなと思っております。
 もう予定の時間を15分過ぎていますので,そろそろ終わりたいと思いますけれども,D先生何かございますか。
D: 端的に言えば道筋が見えてきたので,恐らく,例えが悪いかもしれませんが,脳死臓器移植と同じような道をたどって使われていくようになるのではないかなという感覚を持ちました。
A  : E先生,どうですか。
E : 先ほど,G先生がおっしゃった点ですが,日本は例えば韓国よりもES細胞の樹立では負けているんですね。アメリカからはもう遠く離されていますよね。せっかく科学者が頑張ろうとしているのを倫理とか法律で縛ってしまって,余りにも大変にしてしまっているという側面も否定できないですね。これは恐らくは揺れ戻しですね。これまで産婦人科の領域は結構厳しかったんですが,先生さっきおっしゃったように,ほかの領域ではそうでもなくて,かなり野放しだったのですが,今非常に厳しくなっている。規則を作ってがんじがらめにしようと,そちらの方に振り子が振れている時期と思うんです。もうちょっと戻して,いいところに落ちつけないといけないんだけれども。これはESだけではなくて,ほかの委員会に出ていても感じます。それぞれが単なる倫理の指針なのに,まるで刑法の殺人罪の規定かのように考えてみんな汲々としている。
G: 医療崩壊に入っていますから,そのうち研究崩壊も起こる。
E: 研究崩壊。
A : 最後に。
F: 皆さん方,私が規制論者というか,何でも法とか規則できちんと縛った方がいいというふうな考えの持ち主かとお思いかもしれませんけれども,実は私反対の方で,法はできればない方がいい,規則はできればない方がいいと。でも,しょうがない,作らざるを得ない場面もあるという方なので,そういう主張の方なので,別にルール至上主義者ではありませんので,その辺を誤解のないようにお願いします。
A : よく分かります。
 いや,誤解しておりませんので,どうぞ御安心ください。
F: そうですか。
A : ということで,いろんな御意見いただきましてありがとうございました。今日出たいろんな考え方も含めて,この次のときまでにいろいろお考えいただいて,この次にはもう少し具体的に詰めてお話ができればと思っております。
 よろしいでしょうか,これで終わります。
 それでは,今日はありがとうございました。これで会を終えたいと思います。
事務担当: 一応次回はまた日程調整させていただこうと思います。皆さんそれぞれお忙しいと思いますけれども,12月中旬ぐらいまでには開催させていただいて,できれば議事録の1校ぐらいが年内にお手元に届けれたらいいなと思っております。申請書の方のできぐあいもありますので。またメールを差し上げますので,よろしくお願いします。
A : それでは,ありがとうございました。